食事の場は人の心のあり方が反映される社会的なフィールドである。と思う。

功利主義入門 : はじめての倫理学 (ちくま新書)

以下は、上記画像の書籍を読まれて感想を書かれた増田氏(はてなの匿名さん)の記事からの引用。

食事のときに音をたててよい文化のルールが、「食べるさいには周りの人を嫌な気分にさせるべきではない」という(より深い)ルールに基づくものと理解できる、というのがどういう解釈なのかよく分からない。音をたてることを禁止したがる人は周りの人を嫌な気分にさせるから、音をたててよいというルールがあるんだということ?
日記

ちょっと引用部分の理解は、私にも難しいのだけど、昨日の晩御飯の時に起きたことを書いてみる。私は、無職で、あまり、食べるマナーとかは、そもそも、指摘しても、根本の部分で間違った生き方をしているから、波風を立てるだけだから、言わないようにしていたのだが、琴線に触れてしまった。これから色々と書いてみるのは、「親と長く暮さない方が良い」で全てが言い表せると思う。

例えば、私は、食事を開始する時間は家族であわせるべきだと思っている。その部分を待ちきれないで、食べ出す「いやしさ」や、それに備えた事前行動の大事さは、私が、「しつけ」として言われてきたことだと思うのだが、両親そろって、覆しだしている。

昨日、私が、炒め物を作っていたら、先に飲みだした父親が、ハッピータンとか、とろろ芋とかで、飲んでいて、なんか、ずるずると音がするから、きっと、白ご飯がないから、直接啜っているのだろうと思っていた。それは、否定しない。

だがしかし、私が炒め物などを仕上げて、テーブルに持っていくと、ずるずる音の正体は、というか、ハッピータンを、「とろろ芋」にインして、それを啜るように、食べていた。言う立場にないから、きっと、流せば良かったのだけど、何か、私の大事な部分に触れてしまい、「皆で食べるのに、それはあんまりじゃないか?」と言った。そしたら、父親は「悪かった」とは言った。

私は、鍋とか、大皿とか、そういうのは公共の場だと思っている。自分用に取り分けられた小鉢とかは、自分の部屋だろうか。だから、みんなで食べる、とろろ芋の丼鉢をハッピータンで蹂躙することは、公共の場を荒らしていることに近い。仮に、ハッピータンの魔法の粉が全体に与える影響は、少なくとも、私は、その社会性の部分が許せなかった。きっと、私は、他の人と関わると、こういうところで、気持ちがあらぶるから、早く独りになった方が良いと思った。とりあえず、今後、同じことが起きると嫌だから、「とろろ芋」禁止令を出して、私の家では、私がいる間は、「とろろ芋」を購入しないことを、母親に進言しようと思う。

 

それらを考えた上で、あんまり、関係ないかも知れないけど、引用部の…

食事のときに音をたててよい文化のルールが、「食べるさいには周りの人を嫌な気分にさせるべきではない」という(より深い)ルールに基づくものと理解できる

の部分は、きっと「音を立てないと食べれない人」への配慮なのじゃないか?と思えた。例えば、障害であるとか、本人じゃあどうしようも出来ない部分で、音がなる食べ方しか出来ない人がいるとすれば、十把一絡げに、きっと、ルールで非難できない部分だと思った。

その考えを踏まえると、うちの両親も60歳を越えているから、食の欲求に関して、いやしく、はしたなくなったり、私が子どもの頃に言っていたことと、行動が矛盾しているのは、加齢によるモノかも知れない。しかし、私は、理性の範囲なんじゃないか?とも思う。ただ、私は、30歳を過ぎてから、憎しみの感情が、全然、晴れなくなっていることに気付いている。だから、私も60歳になった時は、もっと、ひどいことになっていると思う。

多分、両親の食に関する態度をたしなめるには、私が結婚をして、子ども(彼らにとっては孫)ができるのが、一番だと思うが、今のところ、その予定がない。

実家に住んでいる以上、難しいが。ごはんは、独りで食べるのに限る。

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2012.07.21 | | コメント(0) | トラックバック(0) | みんなの飯日記

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